株式会社白橋

白橋のあゆみ

小さな木造の一軒家から・・・

東京帳簿印刷(株)創設者 白橋 義太郎
東京帳簿印刷株式会社
創設者 白橋 義太郎

この国が初めてのラジオ放送を行ったのは大正14年、西暦に直すと1925年のこと。
甚大な被害をもたらした関東大震災から2年しかたっていないその年に、現在の白橋グループの礎である東京帳簿印刷株式会社は設立されました。
創設者の白橋義太郎(よしたろう)は静岡県伊東市生まれ。小学校の教師をしていた父のもとに7人兄弟の長男として生まれ、20歳を前に上京。知り合いの伝手を頼って印刷会社で修業をした後、東京帳簿印刷株式会社を設立したと言われています。
震災の爪痕が残る東京都台東区台東にある木造の小さな一軒家で始まった私たちの歴史は、金融機関向けの帳票印刷を主力の商いとしました。義太郎は作業場に布団を持ち込み、昼夜を問わず仕事に励んだことから、ほとんど家には帰らない職人気質の男でした。
その7年後の1932年。日本では五・一五事件・喜劇王チャップリンの来日など、歴史に名を残すニュースが時代を駆け抜けた年。

義太郎の弟・龍夫(たつお)によって、現在の東京都中央区八丁堀に株式会社白橋印刷所は設立されます。
兄の後を追い弟も印刷の道へ。白橋印刷所は活版印刷や文字組みなどを主力の商いとして、その歴史を歩み始めました。

(株)白橋印刷所創設者 白橋 龍夫
株式会社白橋印刷所
創設者 白橋 龍夫

その後は兄弟で切磋琢磨しながら商いを続け、第二次世界大戦の戦火からも兄弟二人の会社は生き延びました。
国難の中でも必死に、ひたむきに商いを続けた二人の会社は、着実に、確実に成長を続けていきます。

御徒町のシンボルを

東京帳簿印刷(株)2代目社長 白橋 薫
東京帳簿印刷株式会社
2代目社長 白橋 薫

終戦の11年後。義太郎は、東京都台東区台東に現在も残る東京帳簿印刷の社屋を建設します。その近くを通る、現在は東京都の大動脈となった「昭和通り」には、まだ馬車が走っていた時代。鉄筋コンクリートを用いた3階建ての建物は、当時としては時代の最先端でした。御徒町の駅を降りると、駅から東京帳簿印刷の建物が見えたと言われるほどの建物は、御徒町のシンボルタワーとして戦後復興の先駆けとなります。
その後も、義太郎の東京帳簿印刷、龍夫の白橋印刷所は成長を続けます。その時の印刷技術は、活版印刷が主流。一文字一文字文字を組み替え、多くの印刷物を製造していました。

1966年には、東京帳簿印刷株式会社の社長が白橋義太郎から薫(かおる)へ。
1971年には、株式会社白橋印刷所の社長が白橋龍夫から達夫(たつお)にそれぞれ引き継がれます。

東京帳簿印刷の二代目社長に就任した白橋薫は物静かで、大らかな性格の持ち主でした。売り上げが前年より落ちても、社員がミスを起こしても、どんな時でも動じず、ゆったりと構える。
そして全社員の子供の七五三まで覚えていて、黙ってお祝いを差し出す、そんな人間でした。

現在の東京帳簿印刷(株)本社屋
現在の東京帳簿印刷株式会社
本社屋

多くは語らなくとも、その醸し出す大らかな雰囲気で社員をまとめ、士気を高める。父である義太郎が一から築いた東京帳簿印刷の舵を取り、バブル経済、そしてその崩壊の波をゆっくりと、慎重に超えていきました。

 

オフセット時代を牽引

(株)白橋印刷所創設者 白橋 達夫
株式会社白橋印刷所
2代目社長 白橋 達夫

一方、白橋印刷所の社長に就任した達夫は、常に時代の先を読み、その時代にマッチした経営を突き詰めました。達夫の就任により、私たちは活版印刷からオフセット印刷へ舵をきります。
オフセット印刷時代の到来を予想した白橋印刷所2代目社長・達夫の経営手腕が、その後の白橋グループの発展を支えます。
他社に先駆けたオフセット印刷機の導入は軌道にのり、白橋印刷所は1972年に6階建て、延べ床面積1190㎡の本館を、その7年後の1979年には4階建て・延べ床面積875㎡の別館をそれぞれ建設し、群雄割拠の印刷業界において、その存在感を見せつけます。
達夫が社是とした「凡事徹底」
なんでもないような当たり前のことでも、全力で。なんでもないような当たり前のことでも、それを極める。
これは現在の白橋グループにおいても大切に引き継がれ、「お客様が求めるものを全力でお作りする」という使命につながっています。
着実にビジネスを展開し、歴史を積み上げてきた両社は21世紀の足音が聞こえる1990年代に突入します。そこで待ち受けていたのは、この国全体を巻き込む苦難でした。


オンデマンド時代を切り拓く

1999年4月1日 オンデマンド印刷機「Docutech」導入 写真右端 白橋 明夫
1999年4月1日 オンデマンド印刷機「Docutech」導入
写真右端 白橋 明夫

バブル経済がはじけると、その泡の幻想から覚め切る前に、日本全体が空前の不景気に包み込まれます。
もちろん印刷業界も例外ではなく、環境問題などとも並行して紙への需要が少しずつ減っていく時代へと突入しました。
そんな1996年、東京帳簿印刷の3代目社長に、明夫(あきお)が就任します。3代目の明夫は、紙の需要に対する転換点を予想します。
「これまでは大量に生産し、大量に売る。しかし、その時代は続かない。」
まだオンデマンドという言葉が業界に響いていなかった時代に、お客様の小ロットのニーズにも対応できるオンデマンド印刷時代の到来を予言します。

1999年、その年に私たちにとっての最初のオンデマンド印刷機「DOCUTECH」が導入されました。
「少ないお客様にたくさん作ってたくさん売る」ことから
「多くのお客様に少なく作って少なく売る」
ビジネスモデルの根幹を見直すような投資は、大きな「賭け」でもありました。しかし、会社経営は常に下りエスカレーターに乗っているもの。立ち止まれば下がっていくだけ。歩いているだけではその場にとどまるだけ。全力で走らなければ上は目指せない。 明夫が行ったオンデマンド印刷時代到来への「賭け」の先には、確かに印刷業界の新たな「当たり前」が待っていました。

2012年 XEROX Corporation BEST OF BEST 表彰式 英国 マンチェスター
2012年 XEROX Corporation BEST OF BEST 表彰式
英国 マンチェスター

その後明夫は、2003年に株式会社白橋印刷所、ならびにすべての関連企業の代表に就任。お客様の小さなニーズにも対応する、デジタルを核とした新たな時代でも、私たちの存在価値を日々模索し、ビジネスという荒波の中で日々成長を目指しています。


創業100年のその先へ

2025年。その年に私たちは100年企業となります。
小さな二階建ての一軒家で始まった私たちの商いは、日々変化を続け、今では全く違ったものになりました。
初代・義太郎は、今の私たちのビジネスを想像など、もちろんしていなかったことでしょう。
しかし、今日までの白橋グループの成長をけん引してきた先代たちと私たちは、変わらぬ思いで繋がっています。
「お客様が求めるものを全力でお作りする」
100年後の私たちの姿を想像することなどできません。もしかしたら、全く違うものを作っているかもしれません。今とほとんど変わっていないかもしれません。どんな未来を想像しても、きっと違います。
しかし私たちは、今までの「白橋」発展に尽力してきた人たちの思いを未来に繋げます。
「お客様が求めるものを全力でお作りする」
そのことに全力になる1日を
今日も、明日も、一か月後も過ごしながら
お客様とともに、私たちは、私たちの未来を創造します。

 

(白橋昌磨)

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